すべての男は消耗品として付加価値税である。

testだんかいでえす 現在TEST段階は1.00.14くらいゴールがどこかわからなくなってきているので3年くらいTESTかも笑

境界性人格障害と近代過渡期 001

テストLv3

ある日友達から「自分は境界性人格障害なんじゃないかな」と一通メールが来た。その時自分は一応ネットなどでそのことについて調べたりしてある程度わかったつもりだった。それから3年経ち、その友人ともあまり連絡がとらない(取れない)ようになってしまってから、ふと本屋でみつけたのが「境界性パーソナリティ障害」に関する本であった。実際3年前はわかったつもりだった部分があった自分ではあったが、きちんとこの本を読んでみればみるほど、彼女のことにあてはまり、なおかつ自分にもあてまることも多く、愕然とした。自分自身のこれまでの失態や失敗などの過ちは、ここから起因する部分も多いと仮定づけられる箇所ばかりが本に目立ち、しだいにこの問題自体は自分自身の問題というよりも、物質主義時代の終焉を意味する症状なのではないかと思えてきたのであった。

 それはつまりどういうことなのかと言えば、新しい親子の関係から始まり、新しい時代、新しい近代、何かの産声をあげる赤子が産道でもがき苦しむ様子が、地球上の様々な場所で起こっているということだと思う。

 そして不安定な私と友達の関係は常に時代に翻弄されつづけてきたのである。

これは私自身の問題でありながら、その友達を本当に助けたいという気持ちがすべて発端している。

 

 境界性人格障害とは、思春期または成人期に多く生じる人格障害である。不安定な自己-他者のイメージ、感情・思考の制御の障害、衝動的な自己破壊行為などの特徴がある。

 症状としては、

・見捨てられる不安や恐怖心が強い

・他者を過大に評価し理想視していたかと思うと、急にこきおろしたり激しい攻撃性を向ける

・人と適度な距離感を保てずグレーゾーンのない好きか嫌いかの両極端で不安定な対人関係しか持てない

・感情の起伏が激しく自分で感情をコントロールすることができない

・数時間から1日~2日で気分がコロコロと変わる

・価値観や人生観が変化しやすい

・虚言が多い

・キレやすい

・慢性的な空虚感と虚無感

・自己主張する割に甘えが強い

・ダッコなど3、4歳のような愛情を求める

・最も身近な相手を振り回し、相手が自分を見捨てないかを試し続ける

・愛情独占欲求が過度に強く常に誰かとつながっていたいと願う

・嫌われたり捨てられるのではないかという恐怖心や猜疑心から攻撃行動をとりやすい

・時に自ら嫌がられるようなことをわざと行ない「ほらやっぱり私を見捨てた」などと相手を困惑させる

 抜粋ではあるが、私自身もこれらに当てはまることも多く、方便的に云うと単なる子供なのである。

フランシスフクヤマの「信なくば立たず」で登場する「認知を求める闘争」という言葉がある。つまり人間の欲求はあのマズローの5段階欲求に制されており、誰かに承認してもらいたく日々闘争しつづけているということなのである。

赤子のころは初めての社会への承認を求める相手、両親への認知を求める。しかしここで失敗するとボーダー障害へと一生陥ってしまうという。

クラスタ1)

信頼には根拠がありません。信頼して偶々破られなかったので、また信頼するという循環があるだけです。信頼が時折破られることを人は知っていますが、そういう場合には強大な物理的実力を背景とする司法や警察権力を呼び出せるとの(根拠なき)信頼をします。

信頼には根拠がないので大々的に破られれば台無しです。ゆえに問題は、いつ崩壊するかも分からない根拠なき信頼が、にもかかわらず曲がりなりにも継続するための、絶えざる条件になります。出発点で合意したり譲渡すれば信頼が担保されるわけがありません。

信頼が典型ですが、私たちのコミュニケーションは、コミュニケーションの中で論理的に確認できない「暗黙の非自然的前提」に支えられています。その前提が如何に維持されるかが「社会の秩序は如何にして可能か」への今日的な回答になるのだ、と言いました。

ところで、信頼とは何でしょう。信頼は、むろん予期の一種です。信頼の形成維持可能性を問うには「予期とは何か」を理解する必要があります。それが今回のテーマです。予期については語るべきことが多くあり過ぎます。今回は「さわり」に留めることにします。

議論の対象を明示すべく簡単な分類学から始めます。予期には「死なないと思う」という積極的なものと「死ぬことを考えたこともない」という消極的なものがあります。積極的な予期には「だろう」という認知的なものと「べきだ」という規範的なものがあります。

信頼は二つの予期層からなります。最初は「刺すとは思わない(考えたこともない)」という消極的予期があります。未分化な予期層とも言います。社会システム理論ではこの段階を、自明性と呼びます。単純な社会では、自明性だけで信頼の大部分を調達できます。

違背の不安が意識されて自明性が崩れると、予期は積極的段階へと移ります。積極的予期には、認知的なものと規範的なものがあります。認知的予期は「だろう」と表記でき、規範的予期は「べきだ」と表記できます。この段階を、分化した予期層とも言います。

「だろう」は、違背に際して適応的に学習する構えがある予期です。すなわち当てが外れれば賢くなる方向で学ぶという態度と共にある予期です。「べきだ」は違背を学習せずに、予期に合わせて現実を変える構え──予期貫徹の構え──のある予期です。

違背可能性が意識される当初は、「考えたこともない」との消極的予期から「刺すこともありうるが刺さないだろう」との認知的予期に移行します。違背が現実的になると、更に「だろう」で構えるのか「べきだ」で構えるのか、予め態度先決されるようになります。

個人から見ていろんなことが起こりうるという意味で複雑な社会──多様で流動的な社会──では、自明性だけでは信頼を調達し切れません。むしろ違背の可能性を意識しながらも、それでも前に進めるように、分化した予期層で信頼を調達する必要が出てきます。

単純な社会の自明性と区別される、複雑な社会における分化した予期層における信頼が、どんな形を取るのか。これを語るにはもう少し準備が要ります。いずれにせよ個人から見て複雑な、複合性の高い社会での信頼を考えるには、予期とは何かを知る必要があります。

ありとあらゆるもの全体を「世界」と呼び、ありうるコミュニケーションの総体を「社会」と呼び、現にある秩序(ありそうもない状態)をなすコミュニケーションの総体を「現にある社会」と呼びますが、こうした概念構成からすぐに理解できることがあります。

例えば「現にある社会」ではあらゆるコミュニケーション(選択接続=異主体間の選択連鎖)が実現しているわけではなく、特定のコミュニケーションしか実現していません。これを個人から見ると、現にあるコミュニケーションは全て偶発的であることになります。

偶発的だとは、別のことが生じる可能性があるのにソレが生じているという性格のことで、様相論理学の言い方では「可能だが必然ではない」ことです。ちなみに、可能性と不可能性が対概念をなし、可能性の中で、必然性と偶発性(非必然性)が対概念をなします。

「現にある社会」をなすコミュニケーションは(たいてい)秩序立っていますが、それは秩序を外れたコミュニケーションでもありうるのに秩序立っているという偶発性とともにしかありえません。何か出発点で偶発性が切り縮められていると見る根拠はありません。

コミュニケーションだけではありません。「世界」はありとあらゆるものの全体なので偶発性はありえませんが、私たちの「世界体験」がそもそも偶発的です。私たちがありとあらゆるものの全体を体験することは(頭が狂っていない限りは)あり得ないからです。

今日は天気になるだろうと思って傘を持たずに出かけたら、雨が降ったりする。傘を持って行ったのに、晴れたりする。雨が降るにせよ、晴れるにせよ、いつでもそれは「別でありえたのにそうなって」います。つまり、私たちの「世界体験」は、全て偶発的なのです。

「世界体験」の全体が、それ自体「他でありえた」という偶発性を帯びています。だから原初的社会(詳しくは別の回に説明します)には例外なく創世神話があります。創世神話は「世界体験」全体の偶発性を、「神」の振舞いに帰属させる機能を持ちます。

同じく、「現にある社会」全体も、私たちにとって「他でありえた」という偶発性を帯びます。だから原初的社会には英雄譚が存在します。英雄譚は「社会」と「現にある社会」の間にある偶発性を、特別な印付きの人間である「英雄」の振舞いに帰属させるわけです。

こうした特異点への偶発性帰属は、宗教の機能に関係します。宗教とは、前提を欠いた偶発性を、無害化して受け入れさせる機能的装置です。前提を欠いた、とは「世界体験」や「現にある社会」の「中に」、偶発性を左右する条件を見出せないことを言います。

前提を欠くので、私たちには偶発性を一切操縦できません。そのままでは不安を惹起するから有害です。前提を欠いた偶発性を「世界体験」や「現にある社会」からかき集めて、「神」や「英雄」に帰属し、理解と儀式の対象にすることで不安を鎮めるのが、宗教です。

クラスタ2)

宗教システムのコミュニケーションメディア~信仰(内在/超越)~】

■宗教学には、呪術と区別して、狭義の宗教を捉える伝統があります。日本の宗教学者の一部は、呪術を「世俗的=利益祈願型」として、また狭義の宗教を「非世俗的=意味追求型」として捉えますが、日本の近代宗教の内部区分に引き寄せられた誤った概念区分です。

■呪術と狭義の宗教との区分は、宗教進化に結びつけられるべき概念です。先の図式で言うと、呪術は「原初的宗教」に、狭義の宗教は「中世的宗教」以降に、相当します。狭義の宗教の特徴は、超越/内在の二項図式を、コミュニケーションのコードとすることです。

■超越とは〈世界〉の外。内在とは〈世界〉の内。ここで〈世界〉とはありとあらゆるものの全体、〈社会〉とはコミュニケーション可能なものの全体です。原初的社会では〈世界〉と〈社会〉が重なり、アニミズムに見られる通り万物がコミュニケーション可能です。

■さて社会システムが複雑になると、〈社会〉は人間界に限定され、〈社会〉の外にコミュニケーション不能な事物からなる〈世界〉が拡がると見做され始めます。この段階で初めて「なぜ〈世界〉(万物)があるのか」との問いが生まれます。この問いは、逆説的です。

■なぜなら、答えは、論理的に〈世界〉の外に存在しなければなりませんが(超越)、そもそも〈世界〉はありとあらゆる全体だから外はあり得ません(内在)。しかし「なぜ〈世界〉があるのか」という問いは意味を理解可能です。ここに超越論的な領域が開かれます。

■超越論的とは、〈世界〉の外であるとも内であるとも言えない領域です。例えば造物主たる神。〈世界〉の内にいたら〈世界〉を造れないので、〈世界〉の外にいることになる。でも、万物を意味する〈世界〉に外があるのは変。仮にあっても認識や触知が不可能です。

■だから観察者的には、造物主たる神は超越論的です。むろん当事者的には、造物主たる神は、〈世界〉の外=超越なる値と、認識や触知の対象=内在なる値を振幅します。故に、超越論的存在への信仰で、コミュニケーションに、超越/内在の二項図式が刻印されます。

■従って近代社会における分化した宗教システムは、「信仰」というメディアが、超越/内在という二項図式を前提としつつ超越へと向けた動機形成と期待形成をなすことを通じてコミュニケーションを触媒することによる、コミュニケーションの閉じだと見做せます。

■教会や神学のコミュニケーションはこの意味で、分化した宗教システム(の一角)を構成します。しかし先に述べた通り、日本では、黙示録的意味論を有する「覚悟系」宗教としてのキリスト教以外に、「浮遊系」や「修養系」宗教が、大きな比重を占めています。

■従って、日本について見る限り、前提を欠いた偶発性を無害なものとして受容可能にする機能的装置としての宗教は、西欧キリスト教文化圏とは違って、「信仰」というコミュニケーションメディアによって閉じた下位システムを構成しているとは、到底言えません。

クラスタ3)

一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題、「精神肉体二元論」(いわゆる実体二元論)といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。

また、これを意識の「内部」の発見と位置付けることもできる。中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである。「一度でも間違いが起こった事柄に関しては全幅の信頼を寄せない」とするデカルトは、それでもやはり、絶対確実なものを見付けようと試みた。ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。そして、このようなものとは、実は「絶対確実なものを見付ける」という試みそのものを可能にする、「私は考える」という事実であった。これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。例えば、「観念に対応する実在はいかに考えられるべきか」や「もっとも確実な観念はなにか」といった問いが挙げられよう

クラスタ4)

80年代に到来したグローバリゼーションの波

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