強迫性症状における脳機能以外の考察01
私の近くにはこの強迫性症状を顕著に表している人間が存在します。
それにはこの私にもあてはまりますが、いいえ、別の人間です。
自然権の侵害になるためあえてあやふやな言い方になってしまいます。
その方は外出するときに症状を表します。扉の鍵がしまっているかどうか
を幾度となく確認して、安堵を得た場合のみ外出しています。
たしかに、扉が、何らかの形で、鍵がかからない、扉が開いてしまう場合
簡単に部外者は、その先へと侵入できてしまいます。
これにはなんの保障もありません。
これはある種、現代社会への信頼がないと、この不安は解消されません。
しかし、この社会には信頼の保障などありません。
信頼の保障がある場合、中世のヨーロッパなどでは、信頼を超越者へゆだねることが
でき、これで安堵を得ることができました。
超越者とは、神であり、英雄であり、なんらかのシンボリックなイデアーです。
唯物社会、合理的社会、消費社会において、信頼となりうるのは
災害保険くらいのものです。
それ以外の信頼の回復は、安定化したパーソナリティによって回復できます。
それは経験、誰かの体験談などによって、信頼はより強固になるでしょう。
しかし、それらの経験、知識が乏しい場合には、どうしても呪術的行為に
よって自己の整合性を保つしかありません。
それは古代の世界で、災害がなぜ起こり、なぜ月や太陽があり、海の端にいけばなにがあるのか
まったく知識がない場合、儀式的な行為によって帰結できることと
まったく同じことです。
ここまで発達した文明社会においても、知識や経験が乏しい場合
強迫行為によって、自己の信頼の回復を保たなくてはならないのです。
たしかに、いつ事故にあって死んでしまうかもわかりません。
その保障は誰にもありません。
神が死んでしまった現代においては、災害保険くらいしか
信頼できるものはありません。
自らの儀式的・呪術行為を行って不安を解消しているのが強迫性行為です。