強迫神経症についての考察014くらい
そもそも病気というもの自体が、捏造なのである。
という乱暴な切り口ではじめてみよう。
たとえば、病気ではなく、なんだと思いますか、
そう、たとえば、
攻撃だとしたら、考えて見ましょう。
フロイトの抑圧という説は、抑圧された衝動が、表現となる。
病的な表現となる、強迫行為ならば、それが表現なのだ。
ラカン理論では、強迫行為は、つまり、生きているのか死んでいるのかどっちかすら
もわからない。矛盾するのだ。
人間の意識を、紙でたとえると、表と、裏で、2面ある紙を
端と端を、ねじってテープでくっつけると、一面しかなくなる
2面あった意識は、一面になるのだ
このメビウスの輪のようなものだという。
そのたとえがわかりにくい
強迫行為は表現であるのだ。
つまり、
攻撃されているという、表現である。
植民地では、母国語を使えなくなるということは基本だ。
いきなり、他国の言語を習得させられる。
そのとき、強迫行為のようなこともあるのではないだろうか。
神は死んだ。
急に次の日に神の死を告げられた場合、どうする?
父の死、偉大なる大文字の父の死である。
その場合、表現としては、どんな表現になるのであろう、創造してみるといい。
病理的は異常ではない。異常があるから病理的になる。
異常はなんだ???