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音楽のなかにある音の意味って無くなったの?

音楽関係

いつごろからかおん音楽をやっていることを続けているうちに割と哲学d的なことを考える羽目になってしまった。
例えば、録音された音楽と、ライブなどの生演奏の音楽とでは、何が違うのか。など。
現在の世界的な音楽市場がぶち当たっている壁だと断言してもいいほどの、この音楽の意味が今回のテーマです。

近代化とロックのイノベーションの歴史は一致する。
 近代化は前時代よりも進化し、よりより発明がよりよい社会を形成するという進化論でもある。
この場合を音楽にも適応させると、音楽は進化し、よりよい音楽へと時間とともに進化しなくてはいけかった。
このもっと進化すべき音楽、については僕が10代の終わりくらいからずっと悩み苦しんでいた課題でもあった。
これ以上進化して新しい音楽なんかないんじゃないだろうか。それはこの世界の果てが崖のように滑り落ちる感覚になる
絶望のようなものだった。2000年からはひたすらその傾向は顕著になっていた。
近代化社会は進化すべきものであるという強迫概念と同じように、音楽はそれ以上に進化しないといけないという
使命感がある。が、もはやそれは必要がないことであった。死に似ている。近代という青年の死だ。

音楽において、そのサウンドの意味は重大な歴史的な背景の参照になる、
たとえば、バイオリンの旋律ひとつにしろ、バイオリンという貴族しか持てないような神事に等しい楽器には
バイオリンの音の意味は重大なことであった。
エレキギターの音も意味があった。エレキギターでしか出せない音があったからだ。
エレキギターにも種類があ


つまり我々はその音楽を聴いて、どこに意味機能性を持たせているのか。
音そのものの純粋理性ではなく、音から参照できる感情などの人間の機能性を感じ取り
そこにおいていたく感動するのではないかと考える。

そうなると、たとえシンセサイザーでそのものの音を再現して作った音楽とでは
意味機能性が、同じような音でも、違って認識することになってしまう。

つまり音楽は認識のパターンでしかない。