近代化から精神科学までのまとめ

長らく精神病という謎の症状について考えてきました。しかし考えれば考えるほどシンプルなものへとたどり着きます。
近代化という歴史を学んだ過程で、沢山の哲学者も精神疾患について本を出していたりもします。
近代哲学の祖であるデカルトですらこういいます。
「精神病はつまり植民地だ」

という簡単な答えにたどり着いたのですね。
つまり戦争という歴史があって、終わったかのように学びましたが、全く終わってもいないのです。
冷戦も終わったことになっているだけで、実際には終わってもいないですし
戦争は終わることは無いのでしょう。

つまり精神に疾患を抱えている人間は、植民地の人間である
ということになります。
いいですか。
植民地の人間はミシェルフーコーの提唱する生権力バイオパワーから参照すると
規制の対象に入りました。犯罪者、狂人、植民地の人間は、規律が必要で
規律を学ばせて社会化し市民へ育成するためには
学校や病院、監獄のようなチャイムが鳴り、時間という概念を植え付けさせることです。

市民である我々は、国王や帝王からすれば、正直にどうでもいい存在です。
同じように国王や帝王の考えていることは市民からするとわからないのかもしれないのです、

例えば、日本人からすると、皇族である天皇家の生活はすごく窮屈で想像を絶します。
休みはあるのだろうかと、心配になったりします。
しかし、想像できないのはあたりまえです、
休みというのは、市民が社会化するために近代に生まれた概念で、市民にしか適応されないからです。
ですので、天皇家の生活には、社会化は皆無で、休みというのは無くてもいいのです。
知らないのです。
存在しないのです。

こんな感じで、週末や休日という存在は
市民の規律権力として、大まかには生権力バイオパワーとして社会システムに組み込まれ構築されています。
この社会システムを脱するには、娯楽や、信用する信託をおく、などといった概念から脱しないといけないのです。

ヒッピーとどう違うのかと思われるようなあれですが
僕はヒッピーカルチャーの本髄をあんまり知りません、
上記のようなことを念頭に置いていたのでしょうか。。。

そうなると、
精神病というのも、いいわけで、
実際のアタックを別の概念に置き換えて管理しているのです。

これが現時点での考察の一段落した結論になります。