言語空間に依存する自然科学
言語空間に依存する自然科学において認識する表象における目的や意味の推考には主体の感情によるものが機能しないと意味は崩落する。
言語による認識に感情が寄与しない場合
言語の根源には生得的に人間の脳機能から発生する函数である感情(以下感情の函数Fとする)から成立しているとする。社会契約をする以前の場合を原初状態と呼ばれるが、原初状態のおいて社会と契約をしなくては死んでしまう恐れがある権力をミシェル・フーコーの生物権力として知られているが、誰しも社会と契約せずに生きていくには、基本的な生物として外部のエネルギーを補食し同化しないと死滅するので、生物として死にたくない思いだけで社会を形成している。その恐怖や食べ物を得た時の喜びを感情の函数Fとして成立し言語として認識することに人類は成功してきた。しかし根源の感情の函数Fが発生する生物的な基本構造が変わってしまったらどうだろうか。感情によってなりたっていた言語も変容し、言語によって成り立っていた、価値や意味、目的や行為といった社会的な表象も変容してしまうのではないだろうか。敷いては全ては感情の函数Fによって認識することにモーダルチャンネルは多大な影響を負っているのでないかと本文では書きたい。
■ もし食べなくていい場合
あなたはもう何も食べなくてもよくなっちゃいました。街へでても食べなくてもいいので、別にハンバーガーや牛丼屋へもいくことがなくなります。すべての飲食店から遠ざかります。友達や家族との社会的な付き合いも建前として食べ物を食べるだけで、別に食べなくてもよくなっちゃったので意味がありません。
食べ物に関する感情の函数Fの意味が崩落してしまいます。例えば、高級な牛肉のステーキも価値がなく、食べ物に対する紙幣での価値やそのものの価値もなくなります。食べるという行為がなくなっただけで価値や意味がなくなりました。そして食べるという目的もなくなりました。
それは木や車や道路が牛丼屋に行って牛丼の並盛りを食べることはないし、牛丼屋へいく行為や牛丼を食べるためにチャリに乗っている目的もあるわけがありません。
なんだか悲しい気分になりませんかね。友達や家族とも会話の内容がすべて食い違ってきそうではないですか。
ふらっと街で牛丼屋を見ても、何も思わないのです。となりの木や太陽とかと同じような何の目的にもならない意味のない物体になっちゃいました。道端に何故かおいしそうな宅配ピザと行列のできるラーメン店のラーメンが落ちていたとしても、何の価値も意味もないのです。
だからその落ちているものが宅配ピザでもラーメンでもどうでもいいのです。必要ないですし、いちいち注文したり、わざわざ行列に並ぶ必要もないですし、他人が行っている食事という行為の意味がわからなくなります。何のためにピザを食っているのか、ピザを食っても意味がないのに、おいしそうに楽しそうにピザを食っているみんなを見ても目的や意味や価値も全く見いだせない自分と対峙します。
■ 軽自動車が牛丼を食べたいと思ってしまった場合
軽自動車は感情がありませんあたりまえですけど。でももし車がおなかがすいて牛丼を食べたいといいだしたらどうしますか?運転中のナビに
「おなかがすきました牛丼を食べたいです」と表示された場合どう思いますか?「まじかよ」「めんどくせえ」「しょうがねえなあ」と思ったとします。
ありえないことですがもしもそんなことがあった場合を想定してください。おいしそうに牛丼を食っている車をみてあなたは「かわいいのう」と
思いませんか。そしてあなたはうまいか?と聞き「おいしいです」と画面に表示されたらどう思いますか?「よかったな」となんか嬉しくないですか。
たぶんこの時点でこれを読む方はあたまがおかしくなると思いますがそれは自由主義の観点を主張している私からすれば自己責任です。