21世紀の資本主義と言語でのコミュニケーション

ハーバーマスのコミュニケーション的行為は
コミュニケーション的行為の自由、コミットメントの継続はなにかであったが
コミュニケーション自体は何なのかといえば、
デカルトのコギトとコギトの対話だと考える。
言語学者フェルナンドソシュールは「話しているのも話していないのも同じなんじゃないか」とおかしいレベルまでいってしまったが、
あながち、
コギト同士が、共感、し合えるのがコミュニケーションだとすれば、
正直、ソシュールの言うことはおおよそ理解できて、話していても話していなかったりするし、話してないのに、話していることもできる。

言語、つまり話し言葉パロールでの会話だけではないということ。

言語は、話すだけではない、のが言語でしたよね。音楽も言語だと書きましたし。

そこで、コギト(世界に俺ひとりしかいない!ほかはみんなロボットだと考えている可哀想な人)さんは、他のコギトBさんと会話していて、
お互いの、感情面において、なにか解決がされた場合においてコミュニケーションが閉じるのではないかと思いマウス。