2000年と経済価値
経済学に於ける価値とは、アダム・スミスのゆうところの、共感できるであろう情熱パッションの一時期的な価値そのものではないか。アダム・スミスの道徳感情論では、それまでのキリスト教社会が聖書からの感情的道徳から自立した。聖書という偉大なる父、家父長制を脱却した社会は、常に神の王国建設のために、地球上で職業という仮の姿に従事した奴隷達を、最後の審判と呼ばれる救済があることで、情熱パッションを黙認できていた、それを共感し、価値があり、共通前提として言語として他者とコミュニケーション的行為が可能。
偉大なるミレニアムこそ、我が凡夫の救済の時ではないか?そう価値を置くのもしかたがない・・・・。
何故なら、いつでも救済の時を待ち仮の姿で耐え忍んで暮らして、今か今かと救済を待ちわびている。
今度こそ、2000年という巨大な力によってすべての不条理から贖いを受けるに違いない・・・。
価値や意味は、社会上層部構造の宗教その下位の政治、の下部層システムで、行為には、他者も同意できるような意味があるから、他者からしても価値が「あるだろう」と思う。
ヤフーオークションで、「これはまだ価値があるだろう」と思って、みんなが思う価値が画面に表示されている
これは量子力学的に観測者問題。
もし、画面を観測しなければ、他者が共感できる価値は、ある、とも無いとも言えない、
画面を見たから価値が生まれたのか、さえもわからない。
記念すべきミレニアムが過ぎ去って、何も無かった。
価値が無かった。
救済されるべきナイーブな情熱は、救済される契機も無く、次回の3000年まで1000待つことになる。
それまでに1000年王国はあるのだろうか。
季節ものの商品の価値は次の日、急激に意味がなくなる。
クリスマスの次の日、クリスマスツリーの価値は前日とくらべ、遥かに意味がなく、共感できる情熱もなく
価値がない、経済的な価値がない。売れない。共感できない。
ただ、クリスマスツリーの点滅するLEDライトだけを深夜じっと見つめていると、ニヒリズム虚無の中から
無垢な現実存在だけがおぼろげながら見えてきそうだ。