すべての男は消耗品として付加価値税である。

testだんかいでえす 現在TEST段階は1.00.14くらいゴールがどこかわからなくなってきているので3年くらいTESTかも笑

欲求と満足について

欲求と満足について

 

我々の欲する対象はたいがいがグーグルで検索できる。例えばEDMを作りたいという欲求を満足させたい場合、グーグルで検索すると方法がでてくる。これを、理性によって制限された普遍性、つまり倫理に制限された悟性(知性)である。言い換えると、EDMは知性である。もし仮に我々が理性によって制限されていなければ、好き勝手に音楽的な音波データを作り、無秩序なカオスのトラックに人々が踊らなければぶっ殺すという、なんの理性的でもないEDM(?)に成ってしまう。そうさせないのが我々の理性によって制限された普遍性である。そしてそれが倫理である。

 

「利己的目的は、おのれを実現するにあたってこのように普遍性によって制約されているために、全面的依存性の体系を設立」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

「市民社会においては普遍性と特殊性とは分裂しており、両者の実体的一体性は内的必然性であるにすぎない。だから市民社会は本来の国家に対して外的国家ないし外面的国家(§一五七)と呼ばれる。また、市民社会の各人はおのれの特殊的欲求の充足を唯一の目的とするが、この目的を実現するためには各人は必然的に形式的普遍に則らざるをえない。つまり特殊と普遍との関係は、自由ではなくて必然的である(§一八六)。だから市民社会はまた強制国家と呼ばれる。ところで普遍と特殊とがこのように相互に分離されて固定されるのは、市民社会では理性が現実性をもっていず、理性の、この有限性の圏への映現としての悟性が支配しているからである(概念諸契機を分離して固定するのが悟性の悟性たる所以)。だから市民社会はまた悟性国家」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

 

「特殊性は、労働と陶冶によっておのれを作りあげ高めあげて、この普遍性の形式、すなわち悟性的分別を手に入れてしまうがゆえにこそ、同時に、個別性の真実の対自存在になるのであり、また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍性に与えることによって、それ自身が倫理」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

「欲求と満足とを媒介するものとしての活動と労働によってである。  主観的欲求の目的は主観的特殊性を満足させることであるが、しかし他の人々の欲求と自由な恣意とに関連して普遍性が擡頭してくるから、この有限性の圏への理性的本性のこのような映現が悟性(3)なのである。この悟性が考察の眼目となる面であり、この圏自身の内部で宥和をもたらすもの(4)をなす面である。」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

 

「人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり、他人と繫がり合っているのであって、そのかぎりにおいて、すべて個人的に特殊的なものが社会的なものになるので」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

「承認されている」とは、ここでは、もっと限定していえば商品所有者として承認されていること。だから個別化、抽象化された欲求、手段、満足の方法は、流通過程に入って社会的なものに」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

 

そしてそれら制限された普遍性の欲求の対象は、商品となり、流通形態に流れ経済となっている。例えば、グーグルで検索してでてこない商品が欲しいという欲求を満足させたい場合、なかなか難しいだろう。とりあえず法的にまずい薬物や児童ポルノ的なもの、それも一応グーグルで検索すればでてくる。なかなか難しい。しかし互いにグーグルの検索にひっかかるように各人各々が満足できる商品などをネット上にあげているので検索にひっかかる。逆に、ネット上にないものは欲求段階に入らない。しかしそれでも社会的なものを形成しており、社会的なものは言い換えれば相互依存性を摩擦無く流通できるということかもしれない。

 

とゆうことで、たいがい我々が欲求する物は商品となっている。そしてそれらの商品は労働などによって生産される。

 

「特殊化された欲求を満たすのに適した、同じく特殊化された手段を作製し獲得する媒介作用が労働」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

「この形成(1)は、手段に価値と合目的性を与えるのであって、その結果、人間が消費においてかかわるのは主に人間の生産物であり、人間が消費するのはこうした努力の産物で」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

 

しかしー、市民社会は皆平等、と言って置いながら、偶然の病、出生時からの不遇など、個別的で偶然性のある状態がある。これらは市民社会において、欲求の取得手段の権利を剥奪しており所有していないことになる。そこで福祉によって、労働によって教育や教養を身につけさせたりしちゃう。何故なら、人としてなんかかわいそうに思ってしまうからだ。道徳感情はこうして、ありもしない欲求の商品の生産をしてしまう。

 

「そこで今度は彼らの生計を労働によって〔労働の機会を提供することによって〕媒介する(1)とすれば、生産物の量がふえることになるであろう。そうすると、一方では生産物があり余り、他方ではこれに釣り合った〔それ自身生産者である〕消費者が不足するということになるのであって、これがとりもなおさず禍の本質である。そしてこの禍は、前の直接的方法によっても、後の間接的方法によっても、ただ増大するばかりである。ここにおいて、市民社会が富の過剰にもかかわらず十分には富んでいないことが、すなわち貧困の過剰と賤民の出現を防止するにたるほどもちまえの資産(2)を具えてはいないことが暴露される(3)。」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

分業によってより生産量が増大したことによって、物は沢山できてしまったわけで、モノが過剰に余っていることになる。これは自分の労働によって、満足させることができない状態、というかそもそも人間の欲求は限りがあるので、それ以上、生産しても誰も欲求しないし満足もできないのである。つまり元々どうしようもないことなのだ。

 

「生産が消費の需要を上まわるとき、自分の欲求を自分の労働によっては満足させることができないような人々が多数生じるのであって、とくにそうした場合、市民社会は植民地建設へと駆り立てられる。」(『法の哲学II (中公クラシックス)』(ヘーゲル, 藤野渉, 赤沢正敏 著)より)

 

それでは欲求(需要)の不足が問題であるが、それらはグーグルで検索できるようになるのが一番良い。グーグルで検索できるようになれば欲求が産まれるし、満足できるかどうかはわからない。

現在の地球上では金融デリバティブなどが膨れ上がり、実際の富の総生産は500兆円くらいなのに、それの何倍の、何京円もの過剰で架空の富(?)が生産されている。しかし地球上にその富に見合った欲求を満足させるものは無い。残念ながらもはや惑星を創造するとか、太陽を建設するとかくらいの欲求になってくるのだ。