すべての男は消耗品として付加価値税である。

testだんかいでえす 現在TEST段階は1.00.14くらいゴールがどこかわからなくなってきているので3年くらいTESTかも笑

|音楽存在:音楽は存在か ver1.00.05

存在とは時間と空間が必要であることはアプリオリであるので、エドシーランという存在が存在するには時間と空間が必要であるのだ。もしエドシーランから時間を奪ってしまうと、空間にしか存在しないエドシーランの絵という存在になるし、空間を奪ってしまうと、エドシーラン的音楽のような存在になってしまうのは自明だ。

私は存在だ

このように批判critiqueは対象を数学的に理論論理的に考えてみるいい機会になる。

我々のエドシーランという存在はソフト面であり入れ替え可能で、いつの時代も同じようなもので、同じだ。中国ではエドシーランという存在は90年台のベイビーフェイスみたいな存在かもしれないし。現実存在機能では、このソフト面はどうでもよく、我々のハード面はいつの時代も変わらない。これが普遍的な文法、ユニバーサルグラマーだ。

そこで音楽という現象は、存在かであるが、音楽から時間と空間を奪って見ると良い。何も残らない。音楽には時間と空間は必要だ。しかし目に見えない。存在は目に見えるものだ。という強迫観念が私達にはあるが、目に見えない存在も存在だ。幻聴が存在だといっているこのブログではそう主張できる。

そこで音楽はではやはり立派な存在なのではないかという問が発生する。しかし存在としてはあまりにも巨大すぎる。もうひとつの命題、存在は死ぬことで存在を全うするというハイデッカーという存在が言っている。音楽が死ぬことで全うできるだろうか。否だ、音楽は私達の前の前に現前してこそ音楽からの所与得られる。実に実存的な存在だ、

では巨大な存在とは何か考えて見よう。太平洋北アメリカ大陸、巨大ではあるが、音楽のように全てを制しては居ない。山や太平洋は整地すればなくなる存在だが、それでも音楽は整地した大地で鳴っている。それでは大気をなくせば音楽は鳴ることは化学的に無いので、宇宙、火星に移住したとき音楽は存在するかであるかの問だ。

火星には実は大気がある。そういうと話が終わらないので無いことにしちゃおうょ。すると音楽は無い。音楽が存在しない空間なのだ。?ということは音楽は存在なのかという問が再燃してきた。

ここで私達を困惑させているのが、音楽といった巨大な概念が存在であるということの恐怖感である。音楽という概念は、いわば希望、愛、絶望、願い、祈り、聖、という概念と同じく目に見えない巨大な概念だ。しかしこれは存在は目に見えないと嫌だという私達の強迫観念がそうさせる。霊やお化けといった目に見えない存在が嫌なのと同じだ。

ということは私達は、このただの音波の中になんらかの音楽的な存在の集合を見出して認識しているということになるのだ。つまりただの音ならそれは音楽ではない。しかし音の中でもとりわけ音楽になる音は、音楽集合として認知されており、今日に至る。それはもはや存在ではないのか?希望という存在は、目に見えないけど、人々が一緒に見える存在だ。

ってゆうか音楽集合って言ってる時点で存在なのでは無いかという批判もある。

次回は存在を象徴界的存在と、現実存在の2つにわけて考えよう。