|社会的共通資本:マクドがなくなっただけでラーニングがなくなったっぽいっす
ノーベル経済学賞のスティグリッツ教授「ラーニングソサエティ」では社会がハンバーガーの作り方をラーニングするもんだみたいなことを書いている。大まかに言えば。読んでないのでわからないけどたぶんそうだろう。この社会の知識や文化は先祖から学習ラーニングして富としてそして社会的共通資本としてこの社会に蓄積されているのだ。
大阪の24時間カフェ
話は変わって筆者が2003年くらいに大阪でさまよってたころ、北区のコウザキキャピタルビルの一階に24時間開いてるカフェがあった。珈琲館だったと思うが、とてもよく通っていた。当時は六本木ヒルズ的なウォールストリート系マネーの匂いしかしないハイプで中身のないカフェで人間味にかけるな〜と思ってたけど、大阪最大規模の繁華街北新地がそぐそこにあるせいか、なんとも言えない離人感のある浮遊した感覚のある、ある意味景気のいい時はコーヒー一杯くらいでなんかいい感じの感じをその場にいるだけで体験できた気がした。
景気がよくなっていった2006〜07年の間には大阪市西区のキララ九条商店街にあるマクドは当初24時てっぺんで閉店していたのに、午前1時までOPENに代わり、メガマックの頃には24時間店舗になっていた。
ところが俗にいうリーマンショック後には潤沢なマネーが消え去り、24時間あいてた北区の珈琲館は閉店。その後はどんどん24時間開いているカフェがなくなっていったし、一方のマクドのほうはホームレス的な風貌の人が死にそうになりながら寝泊まりする場所になってしまっていた。更にはそのマクドですら何故か24時間営業を取りやめてしまい、謎の店舗縮小。そのホームレスは完全に死んだのかもしれない。残念だが。
こうして深夜になれば真っ暗な街になってしまったわけだが、マクドが店舗縮小する前なんかマクドしかないので、北心斎橋店のマクドの2階とか深夜でも人々が沢山いた。しかしそこくらいしか行くところがないのだからしょうがない。しかしその唯一のマクドですら無くなったわけなので、ある意味、記憶から24時間開いているようなカフェ的なものは消されたようなものになった。
そう記憶から消されてしまうということは、ラーニングして蓄積してきたものが社会から消え去ってしまうまるでサトウキビしか作れないモノカルチャープランテーションの第三国問題が如実に日本国にふりかかってきたのだ。
勿論そんな国際的な問題と同じように、マクド的な資本力は店舗を構える周りの経済を一切を吸い取ってしまう。マクドができる前には、喫茶店となんか個人経営のお店があったとしたら、それら一切の顧客のニーズをマクド的なものが吸収し、さらに問題はそれらのニーズを店舗が消えることにより無いものにしてしまうことだ。
ここで消える社会にラーニングされ蓄積されてきたものはその地域で昔からあった喫茶店となんか個人経営のお店だ。マクド的な資本力はそれらのラーニングを吸収し、十分搾取したのち消えて去っていくのだ。
マクドは公共財
そうつまりマクド的なものはつまり社会的共通資本、公共財としての旨が大きい。何が公共なのかはサンデル先生におまかせして、公共とjusticeも同じだと思うので、公平な経済活動をさせないぞ!っていっているのがBIS銀行及びウォールストリート系村上ファンドみたいなやつらイオン岡田みたいなやつらのバックにいるわけだ。
そいつらはマクドは公共財として社会にラーニングされているにもかかわらず資本の理念で、しらんがな土人どもつって、公共財であるマクドをぶっこわしていくのだ。そもそも前回のマクド大型店舗縮小の基準も怪しいところがある。
絶対需要
マーシャルだっけ?新古典派経済学で限界革命以降では絶対に人々が消費する需要、絶対需要という概念があるが、その絶対生きていく上で消費せざる負えない需要を無い?かのような状態にすることで飢餓状態にする。これはけっこう昔から ある手法だ。
グローバル経済では国家の関与をできるだけやめてもらいたいもので、本来ならばブロック経済アメリカファーストのように国家が保護主義的に、このマクド的な資本力が奪ったラーニングの蓄積を補うのであるが、
まあとりあえず戦争になれば戦時国債というものが発行されてそんなんどうでもよくなるレベルで金ががっぽがっぽ動くので、それはやめてほしい。いくら北朝鮮のICBMが大気圏再突入しただけで火の玉になって燃え盛ってぶっ壊れるくらいしょぼいものでも戦争という2文字だけで人々はトラウマになりミネラルウォーターを備蓄したり集団でロウソクをもって練り歩いたりする。
WW1でドイツの賠償金を請け負った戦時国際決済銀行であるBIS銀行はそんなやつらなのだ。なんとかしろ。メルケル。