週末という概念からの脱却
週末というものはユダヤ教、旧約聖書における神ヤハウェの天地創造から「神は天地創造の際、7日目は休んだ」という記述により、安息日という仕事は何もしてはいけないという日があるが、そこからの由来ではないかと思う。
そもそも、太陽暦、やグレゴリオ暦を採用した場合、
曜日という概念により、時間を不変のものとしようとした。
アインシュタインは逆を言い「時間は可変」だと言った。
なぜこんなに多くの人々が、グレゴリオ暦を気にして人生を暮らすことになっているのだろうか。
ペルシャやイスラームでは、実はぜんぜん気にしてもいないかもしれない。
だいたい2000年というイエス・キリストの生誕から最後の審判を予言してきたローマカトリック教会の概念は、人々にニヒリズムだけを残す。
一番の問題は、多くの人びとがその情報によって、意味を見出し、行為を行う点だ。
週末という宗教を信じる人々によって、何億人もの人々が意味と行為を生産し、
経済を生み出す。
では週末に意味を見出せない場合は?
週末というスキーム自体がもし破綻しているのであれば?
経済は、破綻、軍事的に破綻、国家は張子の虎だ。