すべての男は消耗品として付加価値税である。

testだんかいでえす 現在TEST段階は1.00.14くらいゴールがどこかわからなくなってきているので3年くらいTESTかも笑

時間の総合的な判断の結果の統覚

Bedroom Tourist

2016/05/17 10:03  削除

 

時間の総合的な判断の結果の統覚

時間は不変ではない、時間こそが可変であるとアインシュタインは言った。コペルニクス的展開である。

カント的に時間は感性のものでアプリオリであり、時間と空間というものは物事を考える上で(つまり我思う時)絶対に必要な超越論的な感性であると、そして、時間に対する言及は、そこまでだ。つまり、幾何学的に、点が空間を移動することで線になる経緯を観察することで、時間の経過を経験できる。

そこで、時間の感覚であるが、相対的に、絶対的な完全性のある時間がないことは相対性理論でもって言われている。

昨日の自分と、今の自分は、時間としては、時間が違うことはわかる。空間の点が動き線になったような、時間という経験だからだ。

しかし、重力、電磁波、などを無視して、なぜ時間というものだけに感性を研ぎ澄ますべきだろうか。

私達のアプリオリな感性は、時間と空間であるが、他に感覚で統覚できない感性(感じられないオカルト的な、いわゆる電波?)それが、重力や、電磁波であるが、もしかすると、感覚として知覚されていないだけであって、精神の統覚の判断の際に、重力や電磁波も含まれているかもしれなかったらどうする?

デカルトのわたし、は結局だれ?神?なのか、という問は結局わからないのであるが、ここでカントでいう超越論的な言い方、使い方で、デカルトのわたしを、しょうがない存在として、存在自体は問わないことにして、存在してんだからしょうがないじゃないか、ということで、観測者ということにする。

観測者の理性的に完全性のある同一性なおかつ単一性のある判断の総合、つまり→統覚)が精神(Mind?)心(Mind?)であるならば、観測者としてのアプリオリな条件は、理性的に完全性のある同一性なおかつ単一性のある判断の総合が必須条件になってくるかもしれませんね(^????^