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時空に置ける存在の不完全性.rtf

存在の認識、例えば、あるおっさんみたいな派遣労働者がいます。あなたはおっさんみたいな派遣労働者の存在を認識しました今。

今。と書きましたが、今っていつですか?

その認識した時空を意識の起源とした言語の情報空間です。

カントール対角線論法は、平たくわかりやすく言えば、

友達と色んな友達の会話をしてるとき、あいつはこうだね~とか、あいつ今なにしてんの!とか、あいつはもうだめだね!とか、話しているとします。その時、なんか未来まで含めたこの先のやつらと僕らの全てを話したと思うはずなのに、なんか変な不安が残ります。なんつうか、神というか、神秘的な感じですかね。

これがカントール対角線論法っぽいと思ってください。実際は違いますよ。


そして、今、おっさんみたいな派遣労働者が横を通ったとします。

なぜ、おっさんみたいか。おっさんではないからである。

間違いなく、若い、若いのに何故かおっさんみたいなのだ。

そして派遣労働者なのは、なんとなくである。

そう、つまり観測する認識なんてそんなもんなのだ。


しかしながら、その時間と空間を合わせた時空では、そのいい年になってきてだらしない体系でおっさんでありながらも定職につかず、ブラブラしているどうしようもない奴。

という、言語の情報空間で完全性のある閉じた項であるとします。

この時、カントール対角線論法を使うと、

何故か不気味な気持ちになります。

それは、対角線論法によって、いつまでも時空から認識できない謎の存在を否定できないことになってくるからです。


これは私達が言語によって認識しているからだと思います。

チョムスキー統語論シンタックス系とPDPモデルのコネクショニストは、私達の言語は、ひとつひとつは意味がないのに、ある組み合わせになると、急激に言語として意味が生まれるというやつで、意味論シマンテックのファンクショナリズムと喧嘩します。

その界隈で、とりわけチョムスキーの普遍文法Univarsal Grammerは、人間の本能について研究しました。

我々の言語、はどうしてソシュールのいう、分節、シニフィアンシニフィエになるのか、そこから意味が生まれるのか、

という命題について、チョムスキーの普遍文法では感情などの本能的なもの、遺伝的なもので言語は成り立っているのだ!とときました(間違っていると思うけど、いいじゃん)


とすれば、そのおっさんみたいな派遣労働者は本能による言語によって認識されたわけです。


今ボクは心の中で叫びました。

MBSタリーズで書いているんですけど。

もう限界だめぽ(^__^