淡路島にEDCを呼ぶ場合
構造主義的アプローチであれば、他の地方のことを考える上で、マクロでのロジックを、自らの内在に適応することができる。
超越、内在である。
もしEDCを淡路島に呼ぶ場合、どんな地元住民との弊害があるだろうか考えてみようと思う。新住民、国道沿いモンスターペアレンツ問題などもうう
エレクトリックデイジーサーカスを淡路島で開催するとなった場合、本国エージェントとのやりとりや他ブッキングなど諸々以外に何がネックとなるだろうか。
そう、淡路島は私の本国である。父親も母親も親戚も昔の友人なども色々いるわけである。考えてみると、私にとって重要な関数を占めているのにも内在した存在である彼らは、文化的なコミットメントから乖離している。この場合、何故か私達は往々にサブカルチャーや都会的な暮らしが良しというカタストロフィをもっている。そしていわずがな、憧れだけではなくリピドーのように都会に住みサブカルチャーの実態像を体験する。その悪魔の洗礼を受けて、なおかつ、私達の故郷を見会文明国のような侮蔑をしている。悪魔の洗礼のほうが正しいのだ!!!
という価値観をいつのまにか不動のものとしている。
しかしながら、社会性というものは、そんな私達にも内在していて、他者がどう思うだろう、どう感じるであろう、という均衡点は備え持っている。それらは生まれた故郷で培ったゲゼルシャフトそのもの、つまりコミュタリアンVSリバタリアンでいう、動かしがたい共同体の感情なのだ。社会性には、偉大なる他者は共同体の感情としての帰結がある。
それが、このEDCを地元に呼ぶ場合の問題だ。
内在する共同体の感情と、EDCのEDMな感情は、相違がある。
EDMな感情には、乱暴に言えば、プロテスタントが植民地を求めて世界を開拓したときのような開放的な感情に近いかもしれない(わからない(ごめんわからないや
でも、しかし、どう皆が考えても、EDMとあなたたちが育った鳥取の田舎の人々が合う、とは思えないであろう!!田舎の人々はエグザイルが好きだ(しかしエグザイルも最近EDMだが)田舎の人は、おじいちゃんおばあちゃんで演歌が好きだから、そんなエグザイルは無理だ(確かにおばあちゃんがエグザイルダンスしない)
まってくれ、よく考えたら、当の本人たちは、手前勝手にイメージを決めつけられ、エジプトは砂漠しかないようなステレオタイプなイメージ像(ラカンだとイマージュ)に捕らわれているだけではないであろうか・・・。
というか、本当は、EDMなんて受け入れられない、怒られるに間違いない。
と思っているのではないだろうか。
EDM=不良 エレキギター=不良 みたいなカウンターカルチャー。
そんな背徳的で、享楽的な行為は、不埒で淫らであり、断絶されるべきである!!
偉大なる父親はそう怒鳴るに間違いない。そうあなたも思っているのではないか。
これが地域共同体の感情である。
そこで近年の風営法改正と絡ませていけば・・・
浮かび上がってくることは、EDMは、共同体を排除したものだ、ということだ。
共同体の空洞化により、近年様々な事件が起きている。2001年池田小学校事件や1997年のサカキバラ事件、1995年のオウム・・・・。なぜ?
そもそもなぜ、共同体が空洞化するのか?
はやい話、外国の圧力が入ってきたからであーる。
こう言ってしまうと身も蓋もないのであるが!
実践編。
まずEDCを呼ぶにあたって、地元住民との対立が考えられる。
そこで、まずは、反対する人々にぜひともEDCを体験してもらうようなエスタンブリッシュな体験をしてもらう。そのためには、日頃からの積み重ねが大事である。
まず、ロビーイング。
そして、あなたがたは特別です、という触れ込みで、とてもいい気分にさせる。
いい気分にさせるには、彼らの好きなものを全部用意したりなどして工夫する。
そしてその神秘体験の最中に、EDCが最大のフックとなり、奇跡体験になる。
こんな夢の様な体験ははじめてだ、EDCはいいやつだ!!何故なら、EDCがどんなもので、楽しみ方がわかるし、なんなら、楽しむ権利もある!
どうしても頓挫しそうな場合、
あまりおすすめできないが、毎晩、空中から爆音などを鳴らし睡眠妨害させる。
精神のゲシュタルトが崩壊するので、わらをもすがる思いで、なんらかの相談がどこかにされる。その時に、神秘体験をさせる。
以上、カルト宗教などが使った洗脳方法でした。