共通前提について3
共通の感情や感覚がないのが社会全体の損失と、そうしょうかんにつながっています。
冷戦以降の日本が進んだグローバル資本経済化において
共通の感覚が めまぐるしく変わっていったのは記憶にある。
1994年までだと、というか1994年と1995,6ねんもまったく違うんですけど。
1991年の「オヤジギャル」から進化して
1993年の「渋谷ギャル」とか
まだコントロールが効く、範囲内だったんですよね。
1994年くらいになると、会社の同僚と、「連続TVドラマを見ないとの話についていけず、孤立する」という自体があり、「一週間のドラマ番組をすべてビデオで録画し、あとで2倍速くらいで見る」という変な方向へいっていました。
2001年の月9ドラマ「HERO」がゴールデンな共通感覚でしたが
白いきょとうくらいから、華麗なる一族とか、あんまり、共通の話題としては
確立にならなかったです。
共通の感覚がないと、どうなる?
もちろん「さみしい」です。
1999年くらいから、共通の感覚も差異があって、体感の時代なのに、差異
バラエティで、牛丼屋の話がでてくると、近所にその牛丼屋がない地方の田舎では
まったくリアリティがなく、すごく淘汰されているようで、さみしいです。
めちゃイケをみていてると、「ドンキいってきたで!」って急に
なんやねんそれ!!矢部のオヤジ!って
ドンキホーテというチェーン店、今でも都市部のマニアックな場所にしかない
マニアックな店が登場してきて、「さみしかった」です。
牛丼屋にいけばいいだけの話で、そこで牛丼屋を「体験」しないと
わからないことを、共通の感覚、共通前提になってしまった現代。
この現代と、冷戦前の感覚の一番の分岐点であるポイントの「共通前提」
をさっき思いついたので、これはいち早くネットにあげようと思いました。
日本の映画で、何の映画かはわすれましたが
20代前半くらいの、大学生?かの男女カップルが、ハンバーガーファストフード店
の店内で、だべっているシーンで、
男の子が、その手にもっている、「テリヤキハンバーガー」の
こうやって食べるんだぞ!っていって、スマートに食べるのを女の子に
教えると、その女の子は「プロだね!」って。
このシーンが、最大の共通感覚の分岐点を象徴していました。