社会システム論:休日とそうでない日の自分
社会をドライブさせるために型安全性が必要不可欠なのがコンビニの例で述べました。この世には社会なんか存在しない、全て演劇のプログラムである。
プログラムには関数が沢山ある。そして関数には様々な型を引数に値を渡すように作られている。
職業に従事している間は、この職業クラスを継承extendsし実装implementするため、あなたはコンビニの店員としてこの世が生まれた瞬間から存在しているかのような存在の役を演じなければいけない。
この役は、変数といい、定数ではなくJSで言うところのvarである。
var.letなんでも変数の宣言はできるが、このlet.varは初期値はnullである。
その為、変数には何かを代入しないといけない。
そしてそれは普段は田中さん(39歳独身男性)とゆう人類を代入するのが社会的分業制度である。
先にするとこうだ
型 店員 変数名 田中 = new 型 店員(
)
となる。
追記
式がちと違った
正確には
型 店員 tenin = new 店員(コンストラクタ)
$tenin = toString(田中オブジェクト)
まず、設計として世界に店員インスタンスを生成し無ければ求人が出せない。
そして求人に応募したきた田中を雇って変数$teinに代入している
しかし田中さんが休日の時はどうなるのだろう?田中さんは寝ている時も、死ぬ5秒前まで、23時間59分コンビニ店員で1秒だけ元の自分に戻っているのだろうか??
それはタイムカードを押して勤務を終了しているので、その時点でコンビニの店員の役は終わったのだー!
この命題は度々社会学でも問題とされ、欧米と日本の職業倫理観の差の例として取り上げられてる。
では休日の時田中さんは誰なのか?
そう、それは田中さんなのだ!!
しかし、普通に生きているだけでも社会は勝手に様々なクラス型をはめてくる。まるでパプティノコンのように。
社会に生きているだけで、まず国民とゆうクラスの継承、消費者とゆうクラス、広告のペルソナとゆうクラス、近所でのクラス、ハメを外す時に酒を飲んだ時のクラス、、、
カントは純粋理性批判原理論で述語のアプリアリ性を説いた。家は、色んな面を持つ、このことは考えなくても経験から得た知識により、分かる。家は多面体とゆう述語を持つ。
しかし存在については、存在を考える上で時間と空間はアブリオリである。
これは時間も空間も経験していなくてもアプリアリ性があると純粋理性批判原理論で述べている。
では田中さんの述語は何か?
時間と空間があるのは間違いなさそうだ、