統合失調症の幻聴の考察03(全部で7くらいになる)
前回は存在とはなにかを中途半端に書きマスタ。
こんかいは認識とはなにかです。
認識とはなにかについて中途半端に書きます。
存在は認識できるから存在するのです。それを道具連関で配慮できます。
ここに一軒家があります。ありますね?あなたにはここに一軒家がある現象が起きています。
では、この一軒家はどの方角から見ていますか?まさか一軒家のすべての面が見えているわけがないはずと気が付きます。
もし一軒家すべての面が見えた場合は、5次元の世界の話になってくるからです。
では必ずしも2面、1面の家の側面しかあなたは観測ができないのですが、その2面くらいでも、家のことを家だと認識できます。
もしその裏側は張りぼてで空間になっているだけの看板だとしても、あなたは今2面だけしか見ていない家を家だと認識します。
これこそが真実なのではないでしょうか。
このことを「所与性」と現象学的な学者は読んでいます。
では、何故その2面しかない家の側面で家を家だと認識できたのでしょうか。
それは家にはおのずと4面から5面の立方体的な構造を持っているという「経験」があるからです。
経験があるので認識ができたのです。
これを精神にもたとえてみると、
あなたの性格は1面しかないのですか?
ポストモダンをややこしくさせたラカンの秘話「人の精神はメビウスの輪のようだ」のように2面だと思われた精神は1面しかない。
この例えなら先ほどの質問の答えに相当しいでしょうか?
ではあなたが学校や、会社でのあなたは、あなただと同じ人物だと思うのはなぜですか。
もしかすれば別人かもしれない。なぜ同一人物だと判断ができるのですか。
学校や社会では、無理やり社会に適応させる記号化や標本化を行われる場所で、あなたは規律に適応できるように生活しています。
別にあなたはこんなことをしたくもないのに。